炎の舞(4)

4.

 それから三月ほど後の、元徳三年(1331年)五月の何日かでございます。六波羅の役人どもが、文観さまや、修法のお手伝いをなさっていた天台宗の円観上人、忠円僧正を召し捕りました。その上、鎌倉へ護送して、噂によれば、惨い拷問を加えたとかでございます。僧に拷問を加えるなどというようなことをすると、その武士どもの後生は考えるだに恐ろしいことでございますので、わたくしは、文観さまたちのためにも祈りましたが、鎌倉の武士たちのためにも祈りました。
 容疑は、やはり怖れたように、呪詛の修法を行ったということでございました。文観さまは、真言宗の僧たちをも招いて、三角の護摩壇ではあるが調伏法ではないと説明なさっていたのですが、無駄だったようでございます。実際、関東から僧が参りまして、文観さまの護摩壇を写生して帰り、それが呪詛の動かぬ証拠とされたのだと申します。
 七月には文観さまは、南の果ての薩摩の海の硫黄島というところに流罪にされてしまいました。

 「ほんとうのところはどうなのか」
 永福門院さまはお尋ねになりました。それはもう秋の気配のあるころのことでした。
 「以前に申し上げましたように、荼吉尼法では敬愛法を行ずる場合にも三角の護摩壇をしつらえます。文観さまの使われた表白文も見せていただきましたが、純粋に中宮のご懐妊を願うものでございました。やはりあれは陰謀にひっかけられたものと、わたくしは思っております」
 と申し上げますと、
 「浄念も荼吉尼法の護摩を焚きますか?」
 と、意外なご質問をくださいました。
 「わたくしは、荼吉尼法については護摩法を学んでおりません。実は文観さまも学んではおられませんで、ご自分の工夫でなさいました」
 とお答えしました。
 「護摩法がないというのは、どういうことなのか?」
 とお尋ねになりますので、
 「わたくしが理解しておりますかぎりでは、荼吉尼法は、まずはおのれ自身の煩悩の滅却のための法でございます。さらに、他人の煩悩を滅却するために使うこともできます。しかし、いわゆる祈祷法としては、ほんらいは使わないものであるようでございます。文観さまは、愛染明王法に効果がないので、やむをえず荼吉尼法を祈祷に使われたのだそうでございます」
 とお答えいたしました。
 「祈祷に使えぬのでは、密教とは申せぬのではないか?」
 とお尋ねになりますので、
 「荼吉尼法は唐土から伝わった修法ではなく、天竺・南蛮から直接伝わった修法でございます。聞くところによりますと、天竺や南蛮では、密教というのは祈祷法ではなく、修行法でございますそうな。もっとも、弘法大師もそのようにお教えであったように思います。それが、唐土においてか本邦においてか、本末が転倒いたしまして、祈祷が密教であるかのように思い込まれたのだと、わたくしは考えております」
 とお答えしました。
 「ふうむ、そのようなものか。ところで、浄念は荼吉尼法を行じることはあるのか?」
 とおっしゃるので、
 「はい、毎日荼吉尼法を行じております。そうして、おのれ自身の煩悩の滅却と、一切衆生の煩悩の滅却とを念じております」
 と申し上げました。
 「それは難しい方法か?」
 とお尋ねになりますので、
 「正直申し上げて、そう難しくはございません」
 と申し上げますと、
 「効果はあるか?」
 とおっしゃいます。
 「わたくしに関しては、他のどの修法よりも効果があります。内なる煩悩が、ほんの短い時間かもしれませんが、すべて消え去ってしまうような心地がいたします」
 と、正直な感想を申し上げました。
 「わたくしにその方法を教えてもらうわけにはまいりませぬか?」
 とおっしゃいます。
 すこし困っておりますと、次のようなお話をなさいました。

5.

 帝が退位されて法王となられると同時に、わたくしも出家をして、このように尼僧の姿になりました。俗世におりましたころから出家の世界にあこがれておりましたので、それはそれで嬉しいことであったのですが、天台や真言の僧たちに教えを請いましても、一向にわからないのです。難しいことをあれこれ申しますが、それでは実際にどのように暮らせばよいのか尋ねても、読経をなさいませだの、布施をなさいませだのと言うだけで、わたくしの知りたいことに答えてくれません。わたくしの知りたいこととは何かと申しますと、内なる汚れのない暮らしをするにはどうすればよいかです。わたくしの心のうちは、恥ずかしいことですが、どんなに修業をしても、相変わらず汚れております。それをなんとか清浄にしたいのです。しかし、そういうことについては、天台の僧の申すことも真言の僧の申すことも、一向に要領を得ません。
 そうこうしておりますうちに、そなたら律宗の僧と出会う機会がありました。天台僧や真言僧と違って、どう言えばいいのでしょうか、内側からの輝きが感じとれたのです。禅僧からも同じ輝きは感じとれるのですが、あの者たちの言うことは唐語ばかりで、難しくてわたくしにはわかりません。それに較べて、律僧は大和の言葉で話してくれます。しかも、持戒こそが清浄への道であると、はっきりと言い切ってくれます。
 浄念、そなたから十善業道の話を聴きました。菩提心の話も聴きました。文殊菩薩の供養についてもきわめてわかりやすく教えてもらいました。それらは、それまでに天台や真言の僧から聴いた話とは違って、わたくしにもよくわかりましたし、また文殊菩薩のお勤めも、わたくしのこころを浄めてくれたと思っています。
 それにもかかわらず、あれこれ煩悩があるのです。この歳になっても、まだあれこれの思い患いがあります。若いころよりはましかもしれません。しかし、無くならないのです。このままで行くと、死ぬまでそれは無くなりますまい。わたくしは後生が恐ろしいのです。三悪趣に堕ちるのではないかと、本気で心配をいたしております。

 浄念、そなたを見ていますと、他の律僧にも増して、内なる輝きがあるように思えるのです。そなたが申すには、文観とそなただけがある行者から荼吉尼法の伝授を受けたとか。帝が文観を寵愛されたわけが、わたくしにはわかります。かならずやそなたと同じ輝きを、文観も放っていたのでありましょう。そうであるとすれば、その秘密は、荼吉尼法にあるはずです。ですから、それをわたくしに教えてほしいのです。

6.

 女院さまのお話をうかがってから、
 「それはわたくしの独断では決めることができません。わたくしの阿闍梨に許可をいただいてこなければなりません。しばらくのご猶予をいただけますか」
 と申し上げたところ、
 「そういうところがそなたのよいところだ。自分ひとりで決めず、阿闍梨の許可を得てから動こうと思うのだね。わかりました。待ちましょう。わたくしの寿命は、まだもうすこしはありましょうから」
 とおっしゃいました。

 翌日、わたくしは浪速に向かい、翌々日には阿闍梨さまをお訪ねしました。五体投地の後に、
 「お久しゅうございます。ご健勝にあられますか?」
 とお尋ねをいたしますと、
 「儂は元気だが、文観がひどいことになったそうな」
 とおっしゃいます。
 「わたくしは、文観さまが鎌倉に引き立てられます二月ほど前に、お会いいたしました。文観さまは、以前と変らず澄んだ眼をしておられて、呪詛などというようなことをしているとは、とうてい思えませんでした。あまりにも天子さまのご寵愛を受けたので、高野山あたりの者が嫉妬をして讒言したのではあるまいかと、わたくしは思っております」
 と申し上げると、
 「そうか。世間の噂は嘘なのだな。しかし、冤罪で遠島の刑とは、かわいそうなことだ。悪業が無くして苦果があったわけだ。とは言え、そのような果があるということは、文観にそのような前世の業があったのであろう。さいわいに生きて帰れるなら、その業は払われたことになるから、その後はよい暮らしができるであろう」
 とおっしゃいました。なるほど、そのように考えるものなのだなと、阿闍梨の教えの深さに感銘を受けたものでございます。

 「実は今日まいりましたのは」
 と、永福門院の願いのことを説明し、わたくしが荼吉尼法を伝授してもよいものかどうかをお伺いいたしました。
 「浄念、そなたは阿闍梨だ。自分で考えて自分で判断してよいのだ。その女院が、荼吉尼法を学ぶことで、苦をまぬがれ楽を得られるのであれば、教えてさしあげるがよかろう。これからも、願うものがあれば授けるがよい。ただし、相手をよく見て、法の器であることをたしかめてからにすることだ。そなたにはその眼が備わっている。だから、この人ならばさずけてもよいと思うならば、さずけるのがよろしい」
 とおっしゃいました。その夜は阿闍梨さまの家に泊めていただき、久しぶりに甘い菓子をいただきましたし、荼吉尼法についてのいくつかの質問にも答えていただきました。

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