Jalshaのブログ

ヘルペス・ゾスター

 今日はメロンが話題になる。2個目のメロンの順番が来て、半分を夕食後にいただいた。おいしいねえ。残りは明日ね。  ヘルペス・ゾスターという皮膚病にかかった。というよりは、ずっと昔に感染していて、今ごろになって顔を出したわけだ。私の私的な記憶では一昨日(月曜日)の夕方から皮膚に症状が出ていた。昨日の夕方になって症状がひどくなり、今日に入って医者にかかる気になった。まあなんとかなるだろう。
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ヘルペス・ゾスター(2)

 「ヘルペス・ゾスター」なる皮膚病にかかったということは報告した。その記事が先週の水曜日で、今日がちょうど一週間目だ。左胸と左背に湿疹ができて、今日もまだ活発だ。まあ、そうは言っても、全盛期よりはマシになってきている。症状を最高10点とすると、昨日や今日は2点くらいか。先週の症状が悪かったときは7点くらいで、起きて作業していることはとてもできず、ベッドに寝ているしかなかった。いまは、半病人ではあ...
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香港情勢

 香港では毎日のようにデモがおこなわれ、取り締まりはしだいに厳しくなってきている。香港の法律をよく知らないが、外国(日本を含む)が介入することはできないみたいだ。まあ、そうでしょうね。このままで行くと、やがて大爆発になって、ものすごい数の人々が逮捕され、傷害され、場合によっては殺害されるだろう。  アメリカは台湾に対して積極的に呼びかけをしているし、現在の蔡英文政権も活発に反応しているみた...
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ヘルペス・ゾスター(3)

 病弱(?)な私には主治医が二人いる。一人は大学の脳外科の医師で、3ヶ月に一度くらいしか会わない。もうひとりは近所の巡回医で、大学の医師の紹介だ。今日は巡回医の方の診察日だった。主治医にはいつ会うんだろうねえ。まあ、涼しくなってからのことだ。  「ヘルペス・ゾスター」つまり「帯状疱疹」が目下の話題だが、本日で治療は中止になった。完治はしていないけれど、よい方向に向かっていて、積極的に治療し...
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炎の舞(1)

 2015年7月~8月4日に書いた記事です。古くなっていますが、それなりに魅力はあるでしょう。この続きが「影の炎」で、このシリーズが終了後に掲載できると思います。 第一部 荼吉尼法 1.  あれは元亨三年(1323年)の春のことでございました。桜が咲き始めておりました。太子市の日ですから如月の二十二日でしょう。文観さまのお供をして四天王寺の法会に出て、帰りがけに、薬種を売ってい...
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炎の舞(2)

3.  私は十八の年に海に出ました。日本の年号で申しますと永仁三年(1295年)でございますな。蒙古の襲来の後、海の上もすこしおだやかになって、堺の沖に来る唐船が船乗りを募集しておりましたので、それに乗って、はるか南の海に出かけました。やがて、シュリーヴィジャヤと呼ばれる国にまいりました。漢字では室利仏逝と書いておりましたかな。そこは栄えた王国で、仏法が盛んでございました。日本からは半年あ...
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炎の舞(3)

第二部 修法 1.  「浄念は文観という僧を知っていますか?」 と永福門院さまに尋ねられて、わたくしは、 「はい、よく存じております、わたくしはむかし文観さまの従者をしておりました」 とお答えいたしました。浄住寺の客間は日当たりのよい場所に作ってはありましたが、その日は春がまだ浅くて冷えまして、鎧戸を半分ほど降ろしておりましたので、ほの暗くて、上座にお座りの女院さまのご様子は陰として...
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炎の舞(4)

4.  それから三月ほど後の、元徳三年(1331年)五月の何日かでございます。六波羅の役人どもが、文観さまや、修法のお手伝いをなさっていた天台宗の円観上人、忠円僧正を召し捕りました。その上、鎌倉へ護送して、噂によれば、惨い拷問を加えたとかでございます。僧に拷問を加えるなどというようなことをすると、その武士どもの後生は考えるだに恐ろしいことでございますので、わたくしは、文観さまたちのためにも...
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炎の舞(5)

第三章 戦乱 1.  同じ年に、帝が鎌倉殿に対して軍を起こされ、京を離れて笠置山に立てこもられたのでございます。文観さまが硫黄島へ流されたのが七月で、帝が笠置山に行幸あそばされたのが翌八月のことでございます。帝が京を離れさせられると、鎌倉殿はただちに持明院統の量仁親王を新しい帝に立てましたので、帝は廃帝になられ、軍は賊軍となったのでございます。官軍、すなわち鎌倉殿のお味方衆は、いっせ...
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炎の舞(6)

3.  そうこうしておりますうちに、帝は隠岐の島を抜け出されました。その噂が都に伝わったころのことでございますから、正慶二年(1333年)の三月の終りか四月の初めのころでございましょう、 人はみな不安におののいておりました。源平の合戦の後、蒙古襲来を除けば、小さな戦しかありませんでした。ところが、ここ数年、だんだんと戦の勢いが大きくなってまいりました。このままでいくと、また源平の戦のような...
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